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2010年7月23日

 記事のカテゴリー : 学会・講演会・展覧会情報

●平成22年度 第2回西行学会大会(2010年8月28日29日(土日)、新潟大学駅南キャンパス「ときめいと」)

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学会情報です。

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平成22年度 第2回西行学会大会

プログラム


[会場]新潟大学駅南キャンパス「ときめいと」
新潟市中央区笹口1丁目1番地 
電話025-248-8141

一般来聴歓迎

■第1日目 8月28日(土)13時30分から

【講演】

●西行とその時代...放送大学 五味文彦

[要旨]
 西行の活動をその生きた時代を通じて考えてみることにしたい。特に二十三歳で遁世して七十三歳で亡くなるまでこの時期をいくつかに時期区分し、それぞれの時期の西行の活動と時代・人間の動きを見ることによって、西行が追い求めたものが何であったのかを考えてみたい。

●西行晩年の思想と信仰...大正大学名誉教授 山田昭全

[要旨]
 西行は文治二年(一一八六)七月、奥州平泉に向けて沙金勧進のための旅に発った。出発に先立ち歌人達に二見浦百首を勧進し、翌三年春ごろ帰洛すると、御裳濯河・宮河両歌合、諸社十二巻歌合等を編み、俊成・定家に判を依頼している。神護寺の法華会に参り、文覚・明恵らに逢い、人々と「たはぶれ歌」を詠んだのも同じころのことであった。
 西行が伊勢神宮に和歌奉納を思い立ったのは東大寺大仏殿の無事完成を祈願するためだったと考える。東大寺大勧進重源は、大仏開眼の翌文治二年に大仏殿完成祈願のために、伊勢神宮に参り、法楽として大般若経の転読をしている。建久四年と六年には書写した大般若経をそれぞれ二部計二千四百巻を内外両宮に分けて奉納している。西行の和歌奉納は重源の大般若経奉納に相当する。このように考えると、西行最晩年の内的世界は、従来言われてきたようなものとはかなり違ったものに見えてくるのである。

■第2日目 8月29日(日)9時30分から

【研究発表】

●月に鳴くほととぎす―西行「月前郭公」歌の解釈―...國學院大學研究員 荒木優也

[要旨]
 西行の『聞書集』には、「郭公」と題される十二首(七三〜八四)に続いて、「月前郭公」と題される一首(八五)がある。
  五月雨の雲重なれる空晴れて山ほととぎす月に鳴くなり
 五月雨の雲が晴れて月明の中に郭公の鳴く声を聞く景物歌である。
 ホトトギスは、『万葉集』以来夏を彩る風雅な鳥として多く詠まれ、西行の歌もその系譜の中から生まれたものである。「月前郭公」を題にした歌は、既に「郭公くものたえまにもる月のかげほのかにも鳴きわたるかな」(『金葉集』二度本・夏・一二三)や「五月雨の雲のはれまに月さえて山ほととぎす空に鳴くなり」(『千載集』夏・一八八)があるが、これらはホトトギスの鳴き渡る声を雲の絶え間に聞き、さえ渡る月に聞く。そこにはホトトギスへの限りない賞賛があると思われ、西行の歌もそのように受け取れる。
 しかし、西行の「月前郭公」の歌は、右に見たような自然詠を逸脱しているように思われる。なぜなら、西行には次のような歌があるからである。
  雲晴て身に愁へなき人の身ぞさやかに月の影は見るべき(『山家集』一四〇七)
  けふや君おほふ五つの雲晴れて心の月をみがき出づらん(『西行法師家集』三九二)
 雲が晴れることは、身の憂いが晴れることであり、それはさやかな月影に象徴され、あるいは五障の雲の覆う身から解放されることであり、悟りを開いた心が月に譬喩されている。これらの歌から見るならば、西行の「月前郭公」の歌は自然の景物への賞美を越えて、西行の精神世界を歌ったものであることが理解される。このことについて発表をしたい。

●西へ行くということ―西行と四天王寺西門信仰―...テュービンゲン大学同志社日本語センター 山村孝一

[要旨]
 西行の伝記研究は「殆ど逼塞状態に近い」(久保田淳『中世和歌史の研究』、1993年、明治書院)という指摘がある。ところが、どういうわけか、西行と四天王寺西門信仰という大きな問題がこれまで看過されてきた。四天王寺西門が極楽浄土の東門に当たるという信仰は、西行が生きた時代には盛んで、彼が仕えた鳥羽院をはじめ、都から多くの貴顕が四天王寺に参詣した。西行も詠歌中に参詣したことを書き記している(『山家集』752、863、1076番等)。また、「誓ひありて願はん国へ行くべくは西の門より悟りひらかん」 (同、1540番)という西門信仰を詠んだ歌まで残している。「西に行く」という名前を持つ西行にとり、四天王寺西門への思いは深いものがあったことは確かであろう。また、佐藤義清(西行)の出家に関し、四天王寺西門と絡めて見ると、興味深いことも見えてくる。本発表では、西行の伝記研究に「四天王寺」という新視点を提唱してみようと思う。

●西行のうちなる芭蕉―西行歌に於ける俳諧イマジネーション―...ブリガム・ヤング大学 ジャック・ストーンマン

[要旨]
 目崎徳衛氏は、芭蕉が西行の生活に憧れてその足跡を踏むと共に、俳聖の「心中に熟してきた」西行像が数多くの句詠を促したと述べた。(*1) 西行が訪れた地で、その敬慕と自分の眼で見た実感という心境が西行歌を踏まえる契機となったと、氏は説明する。これは、西行と芭蕉を論じる殆どの研究を貫くアプローチと言えよう。但し、西行が蕉風にどのような影響を及ぼしたかを考える時に肝心なのは、謡曲・説話などに現れる西行像ではなく、その歌であるという事を忘れがちではないか。伊藤博之氏が指摘する様に、「俗談平話を詩語に転じうることを芭蕉に示唆したものは、西行歌であった」(*2)ことは確かで、その具体的な詞のレベルでの影響を今回の発表で探ってみたい。手掛かりとして、ハルオ・シラネ氏が提示する俳諧論(*3)を逆方向的に適用し、西行の「山深み」と海人を詠んだ歌群を分析する事によって芭蕉が受け継いだ俳諧イマジネーションの発掘を試みたいと思う。
  *1 『芭蕉のうちなる西行』。「 」内は十三頁。
*2 『西行・芭蕉の詩学』二七〇頁。
*3 『芭蕉の風景・文化の記憶』序と三章参照。

【シンポジウム】
テーマ「伝西行筆未詳歌集切から」
司会 上智大学 西澤美仁 愛国学園大学 宇津木言行

[趣旨]
 本年二月一五日、西行の忌日に合わせるようにして、朝日新聞紙上に西行新出和歌発見の活字が踊った。現在四十七首が知られる「伝西行筆未詳歌集切」を炭素半減期という自然科学の方法と、古筆学や国文学の見地とを融合させた池田和臣氏の新説である。池田氏の説は、
 「伝西行筆未詳歌集切(二首切)考--時雨亭文庫蔵「五条殿 おくりおきし」との関係、  および新出断簡について--」(『古代中世文学論考 第十一集』 二〇〇四.五)
 「古筆切の年代測定--加速器質量分析法による炭素14年代測定--」(中央大学文学部  紀要・言語・文学・文化103・105 小田寛貴氏と共著 二〇〇九.三 二〇一  〇.三)
などに詳述されている。
 今回のシンポジウムの発端はまさにこの「伝西行筆未詳歌集切」であるが、池田氏より同古筆切についてその問題点などを報告いただくとともに、四十七首中最後(最新)の十五首を発見され(「伝西行筆の古筆の新出葉を中心に」(出光美術館研究紀要13 二〇〇七))、二〇〇八年二月〜三月に出光美術館で開催された展覧会「西行の仮名」を主導された別府節子氏からも、「伝西行筆未詳歌集切」を含む、西行筆あるいは伝西行筆とされる一連の古筆に関する報告をいただく。
 さらに、和歌文学研究の立場から、『後白河院時代歌人伝の研究』(笠間書院 二〇〇五)など、平安末期から鎌倉初期の歌壇状況を中心に研究を展開されている中村文氏に報告をいただく。西行を含む同時代歌人達の活動(歌壇)という鳥瞰的視野から、「伝西行筆未詳歌集切」四十七首を捉え直していただくことになろうかと思う。
 古筆切の年代測定という新しい方法の導入の可能性から、同時代和歌との交流にいたるまで、多岐にわたる問題が提起されると思われるが、西行筆であるかないか、西行和歌と認定するかしないか、に終始せず、この「伝西行筆未詳歌集切」は「西行」あるいは「西行学」の中にどう位置付けうるのか、また「西行」のなにをどのように明らかにしうるのか、を議論したいと考えている。
 古筆学、国文学はもとより、多くの分野から参集いただいて、活発な議論が展開されるのを期待する次第である。

パネリスト報告
●伝西行筆未詳歌集切の問題点と年代測定...中央大学 池田和臣

[要旨]
 伝西行筆未詳歌集切は、あまたある伝西行筆の古筆切のなかでも、古筆の神様田中親美や書道史研究の泰斗飯島春敬をはじめとして多くの筆跡研究家が、小色紙(俊忠集断簡)とともに西行真跡と見立てるものである。現在七葉四七首が知られているが、竄入とおぼしき詞花和歌集の能因歌一首を除き、すべて出典未詳歌であり、誰の歌か不明である。しかし、書き入れや抹消等から、藤原清輔と同時代人の自詠草稿と考えられる。
 また、冷泉家時雨亭文庫蔵の「五条殿詠草」の前半五首は、伝西行筆未詳歌集切のツレであり、ひき続いて俊成の自筆自詠歌九首が記されている。この俊成歌のうちの一首は新古今和歌集に入集しており、長寛三年(一一六五)五月頃行われた後徳大寺実定家三首歌会に出詠されたものと知れる。つまり、「五条殿詠草」の俊成筆部分は、その折りの草稿と推定される。このことから、伝西行筆未詳歌集切は俊成草稿より前の時点で、俊成に関わる誰かによって書かれたと考えられる。筆跡や炭素14による料紙の年代測定から、それが西行本人である可能性を提示してみたい。

●西行の仮名...出光美術館 別府節子

[要旨]
 西行の真跡で和歌を書いた作品はわずかに一点だが、一方で、伝称筆者を西行とする、数種の書風の古筆(歌集などの写本やその断簡)群が、「西行の仮名」として比較的多く伝世する。従来は他の古筆の場合と同じように、"伝西行筆"とは、西行の生きた時代の仮名の様式を表していると考えられてきた。しかし、近年の研究や冷泉家時雨亭文庫の公開・調査により、「西行の仮名」の内の私家集類は、平安時代末期に、歌の家である御子左家の俊成・定家親子が、周辺の人々とともに行った書写活動の所産であることが判ってきた。しかも、俊成・定家と西行の関係や、冷泉家に古くから伝わる幾つかの伝承から、この書写活動の輪の中には西行がいた可能性も指摘されている。「西行の仮名」といわれる数種の書風の私家集類の中に、果たして西行が書写した可能性のある作品はあるのだろうか? 真跡の書風や伝承を総合しながらこれを探ってみる。

●平安末期の歌壇状況か...埼玉学園大学 中村文

[要旨]
 伝西行筆「未詳歌集切」について、西行が長寛三年(一一六五)頃までに記した自筆詠草と見る意見は、古筆研究のみならず和歌文学研究にとっても衝撃であり、特に平安末期の歌壇史を扱う研究者はこれに対して何らかのレスポンスを求められていると言えよう。
 まず長寛三年当時の歌壇状況を検証してみよう。保元・平治の乱後のこの時期、二条天皇の内裏で御会が繰り返されていたものの、全歌壇を糾合するような強大なパトロンは存在せず、雅会は主として地下・隠遁者層によって担われる傾向にあった。平治の乱後に張行された、清輔・俊恵・重家・経盛らを主催者とする歌合が、いずれも多くの地下・隠遁者を含み込むことは、当時の歌壇の傾向を物語っている。俊成はすでに久安百首の部類を手掛けて歌壇的な地位を獲得してはいたが、俊恵や重家の歌合に判者を勤めて、地下・隠遁者層の周辺をも活動の場としていた。また、「未詳歌集切」は百首歌ではないかとされるが、この時期は永暦元年の十座百首や歌林苑百首など、地下・隠遁者層を母胎とする百首歌が盛んに催され、『玄玉集』にも中原仲業・源資清といった地下層の百首歌詠が収載される。「未詳歌集切」は「西行の詠草か否か」という問いをいったん離れ、歌壇の実態との関わりで捉えてみる必要があるのではないだろうか。西行もまた、若い折より寂然を初めとする地下・隠遁者たちと親しく交流し、歌筵を共にしている。「未詳歌集切」という窓から歌壇を検討する作業は、西行の詠歌営為を洗い直す作業にもなるであろう。

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西行学会事務局 
〒102-8554 千代田区紀尾井町7-1
上智大学文学部 西澤美仁研究室内 
電話03(3238)3950

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