●小西甚一『日本文藝史【別巻】 日本文学原論 付 日本文藝史全巻索引』(笠間書院)/パンフレット(簡易版)PDFも大公開!/立ち読みも!
5月下旬の刊行です!


小西甚一
日本文藝史【別巻】 日本文学原論
付 日本文藝史全巻索引
ISBN978-4-305-70475-7 C3391
定価:本体15,000円(税別)
A5判・上製・2冊セット函入り
日本文学原論 900頁
全巻索引 260頁

「『日本文学原論』は国文学界にとって、超辛口になりそうです」
(犬井善壽氏宛私信より)
なぜ国文学の目標はまだ確立できずにいるのか。
日本文学は、何を対象として取りあげ
どう研究を進めたらよいか。
いまだ誰も越えられぬ偉業、
『日本文藝史』(講談社 全五巻)別巻として予告され、
2007年の逝去のため、生前の刊行が叶わなかった、
未完の『日本文学原論』を、
刊行委員会の手によって再編集し
お届けいたします。
小西甚一、
最後のメッセージは、
日本文学を根源的に問い直し、
私たちに、今後、古典とどう向き合っていけばよいのか、
教えてくれる、重要な一書です。
本書の刊行記念パンフレット(簡易版)を作りました。
こちらからダウンロードしてください!(PDF・A4、4頁)
●目次等は、上記PDFをご覧下さい。
または、版元ドットコムの本書の紹介サイトで。
長くなりますが、本書の冒頭をテキストでご紹介いたします。
また、最後に、凡例も紹介しています。
どうぞごゆっくりご覧下さい!
【立ち読み】
回顧ふうな序説
一 日本文学の履歴
(一)フィロロギイの移入と変質
明治三十三年(一九〇〇)九月八日、第五高等学校教授の夏目金之助が、ドイツ船プロイセン号で、イギリス留学のため横浜から出発したことは、たいていの漱石伝が言及しており、周知の事実と言っても、あまり言い過ぎではあるまい。しかし、同じ船に、文部省からドイツ留学を命ぜられた東京帝国大学助教授の芳賀矢一(一八六七−一九二七)が乗っていたことは、かならずしも著明ではない(1)。帰国してあとの漱石が日本の近代文藝に残した巨大な足跡は、いまさら述べるに及ぶまいけれど、近代的な国文学の形成における芳賀の役割も、たぶんそれに劣らないであろう。違う点は、漱石がいまなお光輝を失わないかずかずの傑作で文豪とうたわれるのに対し、芳賀のほうは、著作にあまり熱心でなく、もっぱら後進や門下の育成と指導に献身したので、かれ自身は『攷証今昔物語集』(大正二−十年刊)のほか、有力な研究業績を出さなかったことであろうか。
明治三十五年八月二十四日に帰国した芳賀は、九月十九日、教授に昇任し、助教授の藤岡作太郎(一八七〇−一九一〇)と共に草創期の国文学界を主導する地位に立つ。当時、帝国大学の権威が現今とは比べものにならないほど強大だったから、国文学という学域を日本ではじめて担任した(2)芳賀の考えかたは、その後における国文学の動向を支配するほどの影響力があった。それは、ドイツ文献学の移植として、四十年あまり国文学界を支配する。明治期の帝国大学におわされた任務は、欧米先進諸国の科学と技術を急速に受容し、それによって日本の近代化をつよく推進することだったから(3)、芳賀のめざすところも、当然「欧米ふうの科学的な研究法による新しい国文学」だったにちがいない。これは当時としてごく普通な考えかたであったろうが、問題は、なぜドイツが留学さきに択ばれたか----に在る。文化的にはそのころヨーロッパの田舎でしかなかったドイツが択ばれたのは、当時、ヴィルヘルム二世のもとにめざましい新興ぶりを示していたドイツが、いろいろな点でよく似た状況におかれた明治日本の指導者たちをひきつけたゆえであろう。それは、森■外がドイツ留学を命ぜられた明治十七年ごろ、すでに不文律めいた約束事になっており、帝国大学そのものが建学の理念からしてドイツ的で、すべてドイツを手本にしていた(4)。だから、学者とはドイツ語のわかる人だ----というのが、すくなくとも官学の系統では、昭和二十年ごろまで、ほとんど通念だったことを、当時の学生だったわたくしは、証言しておく義務があるらしい。
したがって、芳賀がドイツへ赴いたのも、当然だったといえよう。その芳賀がドイツから持ち帰ったのは、フィロロギイである。これは芳賀によって「文献学」と訳され、以後ずっと通用している(5)けれども、原語Philologieには、文献の学という意味があるわけではない。アウグスト・W・ベェク(一七八五−一八六七)の定義によれば、フィロロギイとは「人間精神が生み出したものを知ること」であり、哲学・史学・考古学・言語学なども包含する(6)〔B■ckh, 1886:8−9〕。現代の事は科学が担当するけれど、過去の事を知らなければ対応できない部面も多く、人間による知識で現存するものを再認識し、それを歴史的に再現するのが、フィロロギイの高い目的となる〔Ebd., 13−19〕。それは哲学と共に、あらゆる科学へ方法を提供するわけで、哲学が"quod est rationis sive juris"〈理ないし法則に属するもの〉と関わるのに対し、フィロロギイは"quod est facti"〈事実に属するもの〉と関わる。ライプニッツのいわゆるErudition(博識)が、いちばん後者に近い〔Ebd., 20−21〕。だから、フィロロギイを文献学と訳したのは不適切だけれども、研究の過程において文献の精査が重視されたことは確かであり、芳賀は、ドイツでその実状に接した経験から、あえてこう訳したものらしい。
しかしながら、フィロロギイには、もっと重要な目標があった。上述のごとく、フィロロギイは言語研究に基づき過去の知識を再構築する博事学なのだが(もし博物学に類比してさしつかえなければ)、それはドイツのばあい、ゲルマン文化の優秀性を立証しようとする方向へ傾きがちであった。ヨハン・G・ヘルダー(一七四四−一八〇三)によるゲルマン精神の鼓吹は、一七九〇年代に興起したドイツのロマンティシズム(7)に深く入りこみ、フランス古典主義への対抗意識も加わって、民族主義への傾斜を強めた。それは、一八四八年の三月革命から、プロイセンを核とするドイツ帝国の統一政策に伴い、文藝におけるリアリズムの浸透とは別に、依然として強固であった。ところが、自然科学の急速に発達した十八世紀後葉から理性への信頼も高まり、イマヌエル・カント(一七二四--一八〇四)の『純粋理性批判』(Kritik der reinen Vernunft, 1881)は、自然科学の基礎を徹底的に理論づけた。それが人文科学における厳密な実証主義の興隆を推進したことは確かだけれど、他方また、ゲルマン精神を奉ずる民族主義も健在であった。つまり"Deutschland ■ber alles, ■ber alles in der Welt ! "の根性と手堅い実証主義とが、分裂しながら共存していたことになる。しかし芳賀は、もちろんこの奇妙な共存を批判する気など無く、ともかく当時の先進的な学説を持ち帰るのこそわが任務だと信じ、それを実行したわけなのであろう。
もっとも、民族精神の優秀性を科学的に立証するなど、科学性に忠実であればあるほど至難だから、厳密さを重視するかぎり、もともと基礎作業であるはずの文献研究がむしろ国文学の主体になる方向へ傾いてゆくのは、自然な動きだったかもしれない。芳賀の明治四十年度における講義『日本文献学』は、まだフィロロギイの博事性を温存しており、その第四章に「国語研究の方面」、第七章に「国史律令の研究」を含むし(8)、同じ年に『国民性十論』も刊行されて、かれがWissenschaft der Nationalit■tという面をつよく意識していたことは確かであろう。ところが、芳賀の好伴侶だった藤岡作太郎は、明治三十八年に『国文学全史平安朝篇』を出した(9)。この名著では、民族精神よりも、文献そのものについての批判が重みをもつ。風巻景次郎(一九〇二−六〇)は、芳賀のいわゆる日本文献学が江戸期からの国学をフィロロギイの方法・体系に当てはめた再活性化であり、国民思想の歴史的な把握を志向する点において藤岡も芳賀と別ものでない----と主張した〔風巻−一九五五・六一四−二〇〕。風巻説の前半はそのとおりだが、後半の論には賛成しかねる。わたくしが『国文学全史平安朝篇』に見るのは、それぞれの作品(藤岡の立場では「文献」)についての批判をこそ主眼とする態度であり、作品は国民思想を把握するための材料であることをやめ、それ自身が研究の直接的な対象になっている。
いわゆる民主的な立場で戦前の国文学を論ずる向きは、藤岡が総論第一章で「武士道はわが国民思想の精髄なり」〔藤岡−一九〇五(1)・四〕と言明していることなどから、かれが芳賀と同じ立場だったかのごとく考えたがる。だが、それは、片言隻句をもって全体の主旨に置き換えるイデオロギイ論者の癖であり、藤岡は、逆に、武士道こそ日本の精華だとする見地から平安期の文藝を批判してはいけない----と主張したのである。時代にはそれぞれ特有な生活理念があり、江戸期の識者が自分たちの規準だけを正しいとする立場から平安期の文藝をマイナス評価したのは、大きい誤りだといえる。日露戦争の勝利から武士道をわが精華だとする考えそのものは共感できるけれども、その規準で平安期の文藝を律するのは、江戸期の識者たちと同じ誤りをおかすことになる。海外の文藝を学ぶ日本人がどれだけ努めても、本国人と同じ精しさ・深さをわがものにはできない(逆のばあいも然り)。平安期の文藝は、明治人にとって、外国文藝と同様な面があり、明治の規準をかるがるしく当てはめる前に、まず自分が平安朝のひとりとなって、その立場から批判するべきだ----というのが、藤岡の論旨なのである〔同上・四−八〕。文藝史の時間軸と比較文学の空間軸とを等価に認めたいわたくしは、相対性理論が発表された一九〇五年に藤岡説の出ていることを、むしろ驚異の念で受け取る。
フィロロギイの日本的な展開という点では、芳賀も藤岡も変わりがない。しかし、重点の置き所が、まるきり違っている。明治四十年の時点で、前述のごとく、芳賀は、まだNationalit■tをフィロロギイの研究目標としていたのに対し、藤岡のほうは、すくなくとも『国文学全史平安朝篇』に関するかぎり、文献の批判がほとんど全部に近い(10)。かれが「平安朝文学史」という題目で講義したのは、明治三十三年九月、すなわち芳賀の留学による講義の空白を補充するため助教授に就任した時から、明治三十七年にかけてのことである(11)。したがって、文献の批判を主とするゆきかたは、ドイツのフィロロギイが移入される前からなされていたわけで、実質的には江戸期の考証学を継承したものと認めるべきであろう。しかし、芳賀が帰国した明治三十五年八月二十四日よりあと、フィロロギイの理論体系により、江戸期以来の文献考証が近代学術としてりっぱに通用することを裏づけられ、自信が深まったと共に、客観性に徹するドイツ特有の論理操作をまなび、考証を精錬するところもあったろう。
藤岡の文献批判は、①作品の成立解明・②作者の推定・③本文伝来の検証などを主とし、これに④表現の評価が加わったものといえる。①については、たとえば『拾遺和歌集』と『拾遺和歌抄』との先後問題が挙げられよう。かれは『抄』が長徳三年(九九七)以後に成り、それを増補して長保三年(一〇〇一)に『集』が成ったと考証する〔藤岡−一九〇五(2)・二一−二三〕。この問題は、多くの研究者により検討が重ねられ、現在、藤岡説とあまり大きくは異ならない結論に達しているのだけれど(12)、かれの知見を賞揚するよりも、江戸期の考証を近代的な文献批判として再生させた(13)橋わたしの労にこそ、顕著な功績が認められるべきであろう。②は①と関連するところの多い問題だが、藤岡は、明確な証拠事実の無い推定を排除する。たとえば『栄花物語』の正篇(14)作者は藤原為業(一一一八?−八二?)だろうという伴信友(一七七三−一八四六)の説を否定し、作者未詳とするのが正しいことを主張している〔同上・二三二−三七〕。信友を「江戸時代における考証随一の大家」と認めながらも推論の誤りを指摘した点は、藤岡の論証態度が、新しい国文学に「科学的研究」を期待した当人らしく〔同上・一一八〕、信友よりも遥かに近代化していた現われだといえる。③については、縮小改作本『夜の寝覚』からその原作形態を推定した章が〔同上・二六〇−六九〕、代表的な例になるであろう。原作本と縮小改作本との関係が明らかにされたのは、昭和二十九年(一九五四)以後のことであり(15)、近代国文学の草創期において『拾遺百番歌合』『風葉和歌集』『無名冊子』など、現在なお散佚物語研究の基礎資料とされる文献を利用していることは、なにがしかの不備な点などに関わりなく、高いプラス評価が与えられるべきだと、何びとも認めないわけにゆくまい。
これらに比べると、④の面は、あまり強いとは言いかねる。たとえば『土佐日記』に対する論述は〔藤岡−一九〇五(1)・二〇二−〇五〕、その才華あふれる文章にも拘わらず、印象批評の域を出るものではない。しかし、印象批評にすぎないとして藤岡をマイナス評価する資格が、国文学界の誰と誰とにあるだろうか。あるイデオロギイ、具体的にはマルキシズムと合う程度いかんで作品を評価する截断批評のほか、たんに主観的な印象批評しかごく近ごろまで顧みなかったわが国文学界だからである。しかも、藤岡の『土佐日記』評は、この作品をプラス評価する先行の諸説が、■漢文臭を脱している・■修飾が過多でない・■淫乱の情にわたらない・■短篇のため享受しやすい----等の点から好評を与えてきたと指摘し、それらが批評規準として妥当でない理由を述べ、そのうえで印象批評を試みる。この「わが規準を示して批評する」態度は国文学界に育たなかったけれども(マルキシズム批評を別にして)、それに比べると、藤岡のほうが遥かに先進している。
表現を客観的なゆきかたで批評することは難しい。そのため、学術性を志向すれば、しぜん実証主義へと傾く。明治四十一年、京都帝国大学の文科大学にも国語国文学講座が置かれ、講師の幸田成行(露伴)と助教授の吉沢義則(一八七六−一九五四)とにより九月から開講されたけれども、文人露伴には教員勤めが向かなかったらしく、わずか一年で辞任する。後任には藤井乙男(一八六八−一九四五)を迎え、のちに京都学派ともよばれる独自的な学風が形成されてゆく。東京帝国大学の文科大学が学生定員を満たしていないのに、わざわざ京都にも文科大学が設置されるのだから、どこか東京とは違った特色をもちたい----という思いが、開設当時の教官たちに共通していたようである。それはシナ学のほうでいちじるしく、内藤虎次郎(一八六六−一九三四)・狩野直喜(一八六八−一九四七)・鈴木虎雄(一八七八−一九六三)たちは、意識的に清朝の考証学を採りこむ。音韻や文字の研究を「小学」と蔑称したシナでは、考証学は儒学の本流からはずれた(桑原武夫ふうに言えば)第二学術と思われがちだったけれども、内藤たちは、それに近代的な学術としての光輝を見出す。つまり、民族精神とかなんとかを解明するための基礎作業ではなく、事実に迫ること自身が目的とされ、そこに高い価値が認められたのである。すこし後に森■外は考証を「無用の人がする無用の事」と言ったけれども(V六一六−一七ペイジ)、何かに役立てようとすれば確かに無用の事ながら、事実を明らかにしてゆく知性が白熱するとき、無量無辺の光輝となる。
この白熱光は国文学のほうへも照射され、文献による事実考証の厳しさが京都学派の特色となる。とりわけ、ある作品を注釈するとき、考証で錬えられたかれらの底力は、しばしば驚歎のほかない明解を生む。たとえば、藤井乙男校注『近松全集(16)』十冊(大正十四年−昭和二年刊)が、代表例のひとつであろう。形のうえだけでは、幾千とある頭注本の同類にすぎない。しかし、見る者が見れば、ある解釈がどれだけ前人未踏の卓見なのか、さらには、その背後にどれだけ巨大な資料の集積が潜められているかまで、ありありと感得できる。こうした集積は、不明の箇所にぶつかってから資料を捜しまわっても得られるわけでなく、役に立つかどうか不明の(大部分は役に立たずじまいだろう)文献をくだらない雑書まで、ふだんから丹念にあさり、頭の天然コンピュータに入力しておく、永年の難行苦行からだけ生まれる。このゆきかたでは、生涯の大部分を本よみに費やしながら、研究成果として発表できるものがわりあい少なく、効率は低いのを常とする(17)。良き時代の、ある意味で贅沢きわまる研究ぶりだといえよう。それでも、実力で吉沢・藤井に劣らない後進たちが十数名ほど出たのは、けっして悪い歩留まりでない。
初期の近代国文学が東京・京都の両帝国大学に主導され、後述のごとく早稲田大学・慶応大学および国学院大学などが別の面からこれを推進したことは、特筆するまでもないように思われそうである。それは思い違いでないけれども、ものごとには例外があり、とりわけ驚異的な例外は、山田孝雄(一八七三−一九五八)の『平家物語考』(明治四十四年刊)であった。大学の背景なしにこれだけの業績が出たことは、いまから見ると、ほとんど奇蹟めいた感じさえ無いではない(18)。これは、現存する『平家物語』の諸本を精査し、三十種のテクストを三門十七類に系統づけたうえで、この物語が三巻本↓六巻本↓十二巻本と成長したことを延慶本から推定しており〔山田−一九一一・五四四−四六〕、その延慶本が鎌倉期の語法資料としていちばん信頼度の高いことをも指摘する。諸テクストのうちどれが原本的であるかを考定するのは、ドイツのフィロロギイにおける重要なしごとのひとつであり、日本の文献学でも多くの優れた業績を生むことになるけれど、芳賀・藤岡・藤井・吉沢のいずれもがこの分野に手を出しておらず、山田によりはじめて開拓された。しかも、その達成度が高い。いまの国文学界における『平家物語』の本文研究は、とりわけ精細をきわめる分野のひとつでありながら、落ち着く所はまだ五里霧中といえよう。それは方法論の不備から来る昏迷と考えられるが、そうした不備を再思三考してゆくと、結局は『平家物語考』という原点へ戻り、そこから出直すほかあるまい。
明治四十年代には、後述のごとく、作品を表現の面から批評しようとする動きもあり、いまから見て芳賀・藤岡に劣るわけではないが、当時の学界ではあまり相手にされなかった。明治日本のめざすところは、欧米の科学と工業に追いつくことであり、その科学は十九世紀いらいの決定論に立っていたから、国文学が「学」であろうとすれば、実証主義でないものは相手にしておれなかったのである。
実証主義への傾斜をいっきに加速したのは、大正十二年(一九二三)の関東大震災だったろう。安全と思われていた東京帝国大学の図書館さえ火難から逃れえず(V五四九ペイジ〈注二一七〉9参照)、ほかに焼失した貴重典籍も多かった。資料を守れ----という切実な衝動が古典保存会を設立させ、多くの典籍がコロタイプ影印で刊行されることになる。この古典保存会叢書(19)は、影印本文そのものが与えた価値の高さだけではなく、山田孝雄と橋本進吉(一八八二−一九四五)とによる解説が、精緻きわまる書誌により、文献への学術的な情熱を燃え立たせた(20)。さらに、偉業『校本万葉集』(大正十三−十四年初版)の刊行も、文献学の興隆を大きく推進している。佐佐木信綱(一八七二−一九六三)が主導し、橋本進吉・武田■吉(一八八六−一九五八)・千田憲(一八八九−一九七四)・久松潜一(一八九四−一九七六)ほかの十一年間にわたる協力で、幾多の困難(21)を克服して成ったこの業績は、十九世紀ふうな意味での「科学」を国文学に初めて定着させたといえよう。これと共に、正宗敦夫(一八八一−一九五八)の『万葉集総索引』(昭和四−六年初版)が本文の実証的な校訂と解釈に多大の貢献をしたことも特筆されてよい。これよりさき、松下大三郎(一八七八−一九三五)の主編した『国歌大観』が研究者に多大な恩恵を与えたけれども、句を単位とする検索しかできないのに対し、すべての語と字について情報を提供してくれる『万葉集総索引』からは、正確な用例が得られる。用例は校訂と解釈を客観的に根拠づけるから、実証主義の推進という点で、最初の(しかも完璧な)総索引が生まれたのは、日本文献学にとって大きい出来事だったといえる。
こうした事が有力な起因となり、昭和期の国文学界は、明治末葉ごろ夢想もされなかったろうほど、すばらしい文献資料の刊行に恵まれる。貴重典籍の複製では、佐佐木信綱による『扶桑珠宝(22)』が以前から出ていたけれども、大正十三年よりあと急増して累計四十五種にのぼり、前田侯爵家の『尊経閣叢刊(23)』は最高度の造本技術で複製の模範と仰がれる。また、典籍というよりも研究資料として実用的に価値の高い文献が稀書複製会(24)から叢刊され、そのほかにも各種の複製や影印が昭和に入って相次ぐ。こうした盛況は、研究者たちの関心を書誌学(25)のほうへ大きく傾かせることになる。さらに、専門雑誌として東京で『国語と国文学(26)』(大正十三年創刊)が、京都で『国語国文の研究(27)』(大正十五年創刊)が生まれたことは、研究活動を推進すると共に、研究者の数をもいちじるしく増加させた。そして、これらの雑誌に目立つのが、やはり文献の調査と考証である。
【凡例】
《凡 例》
一、本書はもともと『日本文藝史』(全五巻 講談社刊)の別巻として執筆されたもので、書名の『日本文学原論』は著者によるものである。
二、ただし二〇〇七年五月、著者の死去により、完成に至ることなく中断された。
三、従って原稿は、各章段ごとに、
【1】 ほぼ完成
【2】 一部に未定稿部分がまじる
【3】 すべて下書き段階
【4】 まったく未執筆
の別がある。
四、右のような状況を目次等でも明らかにするために、【2】、【3】は具体的にその旨を記し、【4】は項目名を太字にして、傍線を施すことによって示した。
五、「目次」は、当初予定されていたものと、執筆がすすんで再構成された段階のものとではかなり違いがあり、実際に残された原稿との間でも、また齟齬がある。本書における《目次》は、現状に合わせて新たに作成した、刊行委員会によるものである(《あとがき》参照)。
六、本文の表記は、引用部分を除き、常用漢字、現代仮名遣いによった。ただし、他の漢字圏では誤解が生じやすいなどの理由で、『日本文藝史』が採用した方針(たとえば「芸」↓「藝」、「弁」↓「辨」ないし「辯」など、文字によっては敢えて旧漢字を用いる)は本書においても踏襲した。
七、用語や訳語については著者独特のものがあり、かなりユニークなものもあるが、すべて原稿の表記を尊重した。ただし書誌学用語としての「version」の訳には、「族本」「族態」と、「属本」「属態」の両様があったので、「族本」「族態」に統一した。また国名の「シナ」「コリア」は、それぞれ「China」「Korea」の訳である。
八、『日本文藝史』の「別巻」として執筆された性格上、内容的にしばしばそのことが意識された表現が見られる。たとえば「本巻」とは『日本文藝史』のことであり、本文中に(I 三六六ペイジ参照)などとある箇所は、『日本文藝史 I』における三六六ペイジを参照されたい、の意である。
九、執筆時点が刊行時点をかなり遡ることによって生じる問題もある。本書の執筆は『日本文藝史』最終巻の刊行(一九九二年)直後からはじまっているが、現在では亡くなっている人物もその時点では生存しており、今では用いられなくなった「文部省」とか「大蔵省」とかの名称もその時点ではまだ用いられていた。特に論旨に影響するわけではないのでそれらはすべてそのままにしておいた。
一〇、本文中に引用した研究文献に関しては、原則として、【1】稿者の姓、【2】発表年、【3】初出ペイジの順に、〔 〕内に示してある。ただし末尾に付されるはずであった「引用資料一覧」が未完成なため、残念ながら不備なものとならざるを得なかった。
一一、注は各章末にまとめて付した。ただし原稿欄外に記された覚え書きなども刊行委員会が新たに注として追加したため、章段によっては必ずしも原稿通りではなく、整理され、改められた番号になっている箇所がある。
一二、刊行委員会による文章や覚え書きにはすべて《 》を施し、著者によって執筆された文章と区別した。
一三、なお、長期にわたる執筆であり、しかも著者自身による推敲を経ていないため、時に原稿には混乱や不統一と思われる箇所が見いだされる。明らかなミスと思われるものについては刊行委員会の責任において改めた。
一四、別冊として、『日本文藝史』ならびに『日本文学原論』の索引と、「分析批評のあらまし--批評の文法--」とを収めた。「分析批評のあらまし--批評の文法--」は、もと『国文学解釈と鑑賞』(第三十二巻第六号、昭和42・5 至文堂)に掲載されたものであり、その転載である。
一五、索引は、『日本文藝史』については著者自身が生前に作成しておいたものを用いた。『日本文学原論』(「分析批評のあらまし」をも含む)については、刊行委員会が新たに作成した。






























































































































































